長谷邦夫はてなダイアリー・アーカイブ

長谷邦夫はてなダイアリーのバックアップです。今のところ更新は無い予定です。

午前中のコンビニ

●買い物。

北島町小西昌幸さんより
 町の催しチラシ。
 小松崎茂!のコトを講演される方の
 情報。
 いつも有難う御座います。
 小松崎ペン画!!
 子供時代に模写!!


キューブリック、最初期作品が、日本で、5月に公開とか。 観たいね。

以下
フェイスブックカラコピー↓

赤塚先生は、毎晩、編集者たちを引き連れ、飲み歩いては、新宿の『アイラ』というバーでタモリと合流する。
キャバレーの噴水から、裸のタモリがイグアナの真似で出てきたり、新しい遊びを考えるのが日課でした」

そんなある晩、赤塚がタモリに絡み始めた。

... 「お前、売れ出したと思っていい気になるなよ」

タモリも色をなし、

「そんな言い方ないだろ、売れない漫画家に言われたくないよ」

とやり返す。
周りが必死に止めるが、手にした水割りをぶっかけ、ついには取っ組み合いに。
タモリを羽交い絞めにして鼻の穴に落花生を詰め込む赤塚。
すると今度はタモリがグリーンアスパラにマヨネーズをつけて赤塚の鼻に突っ込む……。

「ようやく我々も『あれ?おかしいな』と気づく。
要は、2人で綿密に仕組んだギャグだったわけです。
先生の持論は
『バカなことは本気でやらないとダメ』。
遊びの時に気を抜くと、
『ふざけるな!真面目にやれよ』
と叱られる(笑)」
(以上引用 週刊文春

上京してまもないタモリさんに、赤塚さんは自分が住んでいた目白の高級マンションを明け渡し、自分は木造2階建ての仕事場で寝泊りしていたといいます。
その理由はというと…。

(以下引用)
タモリは今まで会ったことのない、ものすごい才能だ。
ああいう都会的でしゃれたギャグをやる奴は、贅沢させないと。
貧しい下積みなんかさせちゃダメだ」
(以上引用 週刊文春

その10年後。
仕事場を訪ねた担当者に、赤塚さんは1通の通帳を見せました。

(以下引用)
「『タモリがさあ、自分の会社の顧問になってくれって言うんだよ』。
そこには毎月30万円ほどの決まった額が振り込まれていました。
当時、先生は連載がひとつもなくなって、不遇の時期だったんです。
またタモリ
『先生、あのベンツ乗らないでしょ。1千万円で譲ってよ』
『キャンピングカー、500万で譲って』
と言っては、代金を払ったといいます。
先生のプライドを傷つけない気遣いなんです」

むろん赤塚もその思いを察していた。

「『タモリの会社なんてホントはあるのかどうかもわからないしさ、ああやって俺のこと助けてくれてるんだろうな』
と言っていました。
いい話だなと思って、通帳をよくみると、1銭も使っていない。
『そりゃそうだよ。芸人なんて2年で飽きられるだろ。そうなったらこの金で俺がタモリを喰わせてやるんだ』と。
赤塚先生が一枚上手だった」
(以上引用 週刊文春

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これには、感動しました。
恩というのはこうやって返すものなんだと
心から思いました。感動したらシェアしましょう。もっと見る

注・長谷
新宿の飲み屋は
「アイララ」です。
 2丁目ですね。
ここで、フジオ先生は、タモリを呼んで
二人で「ショー」をやって見せた。

注2!
「キャンピング・カー」は、
 北海道のアイヌ(歌舞団を組織していた)人物にプレゼントしたはず!
 何しろ、彼は11人もの子を持っていた。
 彼は、キャンピング・カー子供を乗せ、下落合のフジオ・プロまで
 やってきた!!ことが有ったのだ。

 小生は、それを記憶している。
 当時、450万円とかのベンツ・スポーツは
 タモリにやってしまった。
(海外映画『召使』で、主人公が乗った名車です。
 富士スピードウエイでの8時間耐久レースという
 アマチュアの大会にも出た。運転は、元ヤナセの社員で
 レース資格を持っていたフジオ経理のH氏サン)。

 ぼくは、この車でタモリ運転下で、伊東まで行ったことが有った。
 高平哲郎らのTV特番の企画議会に出席するためである。