長谷邦夫はてなダイアリー・アーカイブ

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美女と野獣

nagatani2005-12-03

専門学校のイラスト・
コースの生徒が描いた
課題「美女と野獣」の
作品にトレペでコメ
ントを付けたり、赤で
添削などを行う。
二つのキャラを組み合
わせて表現してもらっ
たのだが、その組み合
わせは皆面白いが、
「美女」が描けていない。
少女キャラでとどまってしま
っているのである。
「美女」には美少女には無い
セクシーさや
、大人の魅力み
たいなものが欲しいと言って
おいたが、捉え方が幼い。
あとは「ミッドナイトプレス 詩の雑誌」を読む。
編集長の岡田幸文さんに、同誌掲示板からお礼をすると共に
今号の詩群が軽く感じた、「心を打つ」言語の構築が必要な
ときがきているのではないか…といったことを申し上げた。
戦後の現代詩が浪花節的な「情緒」や「感動」から離れて
新しい言語で、新しい日本人の「詩」や「志」を構築して
きたことは確かだ。
その困難な表現行為が<現代詩は難解>であるといった通念として
一般的に蔓延してゆき、「詩は売れない」といった下世話な現実
が生まれ、詩誌を貧しくさせ、詩を衰弱させてしまった。
マンガの発展進化とは逆の現象であったが、ぼくは現代詩にも
興味を持ち、同人誌活動の中で、長いこと(少数であるが)作品
を書いてきた。
いまそれは中断しているが、詩に関心を失ってしまったわけでは
ない。現代詩が再び多くの読者に読まれるためには、どうしたら
いいのであろう…などと思ったりするのだ。
で、「心を打つ」ことが必要ではないか、と思わず書いた。
詩人は自分の内側を繊細に、あるいは大胆に書くことはうまい。
今も昔もそう変わらないような気もする。しかし、それだけなのだ。
読者の心に飛び込んで行こうとしない作品が多い。
理解されないんだだったら、それでもいいんだ。孤高の詩人でも
ないのに、そんな風に変に毅然とし過ぎていやしないか。
それでは人の心を打てない。浪花節にならない新しい心の打ち方〜
言語形式の発見が必要ではないのか。
それがどういう形式かは、ひとりひとりの問題である。
でも「志」が、読者の心を打とうと願っていることが大切なような
気がしてならない。これは、読者の胸元に飛び込んで行くことでは
大いに進化したマンガについても言えるのではないか…。