長谷邦夫はてなダイアリー・アーカイブ

長谷邦夫はてなダイアリーのバックアップです。今のところ更新は無い予定です。

今日も「フェーマス」

●昨日に続いて、インストラクションを行なっている。
一日どこへも出なかったので、今日は公共料金の支払い
がてら、ちょっと買い物に行こう。
★久し振りに「ガスト」へ。
昼食後、「週刊文春」読み。小説の校正少々。
もう一息のところにきた。

井上雄彦さんの「プロフェッショナル」を見て、内田樹教授は
優れた感想を氏のブログにお書きになっておられた。
<マンガ創作者>にとって、最重要と思われる部分を
ここに貼らせていただきます。
以下がその部分です。↓
〜前略〜
井上さんは外部評価を得るために描いているわけではないし、読者の共感を得るために描いているのでもない。
キャラクターたちはある段階からは固有の生命をもって動き始めており、彼らにそのときどきに最適な言葉と表情と動きを与えることがマンガ家の仕事だと井上さんは思っている。
「登場人物が勝手に動き出して・・・」ということは作家でもマンガ家でもよく言うことである。
たしかに、ある程度技術にすぐれたクリエイターなら、彼らが造形した虚構の人物が、物語の中で勝手に動き始め、勝手にしゃべり始めるということはあるだろう。
けれども、それで終わりではない。
「キャラ」たちもまた生身の人間の場合と同じで、物語の中で無数の選択を前にする。
何を言うべきか、何をなすべきか、彼らも迷う。
彼ら自身にとって、もっとも必然性のある言葉は何か、行為は何か。
それを言うことで過去から解放され、それをすることで未来が拡がるようなものがあり、そうならないものがある。
わずか一言で「キャラ」が同一人物でありながら、まったくの別人になってしまうことがある。
今の井上さんの技術的な関心は、一人の登場人物の生身から絞り出されて来る決定的な一言をつかまえること、その語の奥行きと深さを担保する顔を描くこと、この二点に集中している。
「顔を描く」画力において、日本のみならず世界のマンガ家の中でも井上雄彦に伍する描き手はもういない。そのことは誰でもが認めるだろう。
でも、井上雄彦の天才性は、その「キャラ」以外の誰も口にすることがなく、それを口にしたことによって、その「キャラ」が「その人」自身になるような決定的な一言を探し求める真摯さのうちにむしろ存すると私は思う。
もう一つ気がついたことがあった。
井上さんは『スラムダンク』でも『バガボンド』でも『リアル』でも、「短期間内に急速に成熟しなければならない少年の成長のドラマ」という話型を選んだ。
この「時間的切迫」のもたらすサスペンスは井上雄彦に限らず、多くのすぐれた少年マンガに見ることができる。
それが「締め切り」を前にして、短期間のうちに、自分で納得のゆく物語を作り上げ、絵を描き上げなければならないマンガ家自身の切迫と同型的なのだということに気づいた。
「描き手自身が成長しない限り、登場人物が成長することもない」と井上さんは語っていたけれど、それは言い換えると「締め切りまでに自分が人間的に成長しなければ、登場人物が前回よりも人間的に成長することはありえない」ということである。〜後略〜
(先生、勝手なことを致しております。お許し下さい!まずい場合は削除致します。)