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伊藤剛さんのマンガ研究本!!

テヅカ・イズ・デッド
ひらかれたマンガ表現論へ

伊藤剛
(定価) (刊行状況)近刊
(発売日)2005.09 (サイズ)A5判
(ISBNコード)4-7571-4129-7

▼90年代、いつしか当たり前のように「マンガはつまらなくなった」という言説が一人歩きを始めた。実際には、多様なマンガ作品が数多く生み出された豊潤な時代だったというのに。
▼だが、戦後マンガの隆盛とともに歩んだ世代は、それを見て見ないふりする。89年、手塚治虫の「死」以降、あたかもマンガの歴史が終わったかのように、マンガの歴史には何も付け加えるべきものがないかのように語られた。マンガが描かれ、読まれ、変化を続ける現実は厳然と存在するというのに議論はいつも同じ所を堂々巡りしていた。
▼私たちは神(=手塚)の死後15年というもの、歴史的空白のなかにいる。この間に描かれ、読まれ、愛されたマンガたちは、孤立し、そして急速に忘れられようとしている。空白は歴史の分断である。89年で歩みを止めてしまった者たちが、いくら「手塚は…」「赤塚は…」「石森は…」と言っても、若い世代から「それ、あなたがたのノスタルジーでしょ」と見向きもされない現実は、その空白に由来する。
▼これは、マンガというジャンル全体にとって不幸ではないのか? マンガ史を書かせずにきた「マンガの近代」が抱え込んだものとは? 私たちの生きる、二重の意味での「歴史の不在」を解き明かし、90年代以降、そして「これから」のマンガ表現の可能性を「キャラとリアリティ」という視点から探る。
(目次)
はじめに

第一章 変化するマンガ、機能しないマンガ言説
 1-1 なぜマンガ言説は、現状に対応できないのか?
 1-2 「読み」の多様さとシステム論的分析の必要性
 1-3 マーケット分類とジャンル分類のあいだ
 1-4 「少年ガンガン」に見る言説の断絶
 1-5 誰が子どもマンガを「殺した」のか
 1-6 キャラクター表現空間のなかで

第二章 切断線を超えるもの――いがらしみきおぼのぼの』の実践――
 2-1 いがらしみきおの認識
 2-2 『ぼのぼの』と「動物化するポストモダン
 2-3 「切断線」としての『ぼのぼの
 2-4 「切断線」はどのように見いだされたか――マンガ表現をシステムとしてみる

第三章 「キャラクター」とはなにか
 3-1 「キャラ」とリアリティ
 3-2 『NANA』は「キャラ」は弱いけれど、「キャラクター」は立っている
 3-3 「キャラ」とはなにか
 3-4 「キャラ」からみるマンガ史――『地底国の怪人』が隠蔽したもの――

第四章 マンガのリアリティ
 4-1 マンガにおける近代的リアリズムの獲得
 4-2 「コマわり」とはなにか
 4-3 『新宝島』と「同一化技法」 竹内オサムが抱えたマンガの「近代」
 4-4 フレームの不確定性
 4-5 映画的リアリズム、「同一化技法」ふたたび
 4-6 少女マンガと「映画的」ではないリアリズム

第五章 テヅカ・イズ・デッド 手塚治虫という「円環」の外で
 5-1 手塚治虫という円環
 5-2 より開かれたマンガ表現史へ

おわりに マンガ・イズ・ノット・デッド