長谷邦夫はてなダイアリー・アーカイブ

長谷邦夫はてなダイアリーのバックアップです。今のところ更新は無い予定です。

月刊ヒーローズ

★<7>を、コンビニで購入した。

某フリー編集氏のブログより■
成年漫画誌の老舗ブランドである。噂には聞いていたが、週刊発行が厳しく、隔週刊になった。正直、週刊には戻れない(と思う)。よほど頑張らないと、隔週でもキツイ。『静かなるドン』というメガヒットに続く作品が出てきてないようだ。週漫、ゴラクの成年ご三家の一角が崩れた。(後略)

小生も古く、パロディ連載をしたことがあった!
編集長・峯島さんの時代が、実に懐かしい。
担当編集さんだった外山氏は、現在どうなさって
おられるか?

講談社フェーマスから、委託料明細書。
 北島町小西昌幸氏から)「文化ジャーナル」。
 坂田明トリオのコンサート・ちらし他。<創世ホール
 ↓創世ホール・講演(昔、おこなったもののテキスト)
 ●ドコモ。二重支払いとなった料金の返還振り込み通知。

★★専門学校の「小説コース」1〜2年に書いてもらった「課題原稿」を読み
 コメントを付け、採点(通常点)も行っている。

◎長いながい〜〜〜〜貼り付け◎
葛飾区の郷土博物館で、土曜日講演するものと
大きくダブる〜が、当然、いろいろ違う。
この過去のモノは、一切参照せず、レジュメから
中身を書いたものを、昨日、切り張りしつつ
一つにまとめてある!

以前書いたもの↓
トキワ荘風雲録
何故マンガ家たちが集まったか?  かつて多くの新人マンガ家が住んだアパートとして有名になったトキワ荘は、東京都豊島区椎名町5丁目2253番地、目白通りそばの落合電話局前にあった2階建て(上下22室)の木造アパートです。現在は南長崎3丁目と呼ばれている所です。
 一体何で若いマンガ家がたくさんこのアパートに住むようになったのでしょうか?偶然とは思えません。それは、戦後のマンガ界に大きな足跡を残した二人の人物のせいなのです。その一人が編集者の加藤謙一さん、もう一人が手塚治虫先生です。
 昭和28年、この小さなアパートの二階の4畳半部屋に手塚先生が住みつきました。最初は蒲団一組と坐り机だけの入居です。座布団一枚も無いまさに仮の宿。先生を連れてきたのは学童社という雑誌社の担当編集者・加藤宏泰さんで、彼は父が創刊したマンガ月刊誌「漫画少年」の編集長をやっていました。
 この学童社を興した加藤謙一さんは、戦前、講談社の編集者で、後に雑誌「少年倶楽部」の名編集長と謳われた人物です。熱血小説の佐藤紅緑や、マンガ『のらくろ』の田河水泡を育て「少年倶楽部」を日本一の少年月刊誌に育てました。しかしその業績が仇となり、戦後米軍GHQから<戦争協力の編集者>という烙印を押されてしまう。出版界から追放のうきめにあってしまったのです。GHQは日本の民主化政策を推し進めるために、多くの民間人を公職追放しました。運悪く、その一人に選ばれてしまったわけです。
 それにGHQは、アメリカに対する反抗心や復讐の気持ちを起こさせぬために、時代劇の仇討ち映画の製作などを禁止しました。替りに、アメリカの短篇アニメ・フィルムやポピュラー音楽レコードを貸出したりします。民主化政策ですね。
 しかし、もともとマジメ人間で教育出版に夢を持っていた加藤さんは、奥さんの名義で自宅の二階を編集室とする小出版社・学童社を創立し、昭和22年に「漫画少年」を創刊しました。この加藤謙一さんがおられなかったら、トキワ荘にマンガ家は集まることはなかったでしょう。どう言う事かといいますと、大阪のマンガ出版社界では、既にベストセラー・マンガ家として知られていた手塚先生は当時、東京の出版界では完全に無視されていたということがあるんです。
 大阪では、その頃赤本出版が盛んで、手塚先生もその描き手の一人と思われていたのです。赤本なんか、お祭りの夜店で叩き売られる三流のものというのが、中央の認識でした。
そんな状況のとき、手塚先生が大阪の出版社から石田英助というマンガ家の取材を依頼され上京したのです。でも石田先生の住所が不明だった。そこで手塚先生は学童社へ行けば分かると考え、編集部を訪ねた。
 その際、先生は加藤謙一さんに自分の未発表原稿を見せたのです。多分、取材がてら各出版社への売り込みを考えていたのでしょう。加藤さんは原稿を見て、大変驚きました。というのも、その作品は後に大変有名になる『ジャングル大帝』だったんですから。加藤さんは即座にこの作品をうちの「漫画少年」に連載しませんかと言って、昼食にハムエッグをご馳走しました。ハムエッグは当時では大変なご馳走だったんです。手塚先生の作品にハムエッグというキャラクターが登場しますが、それはこの時の手塚先生の感激から生まれたと言われています。
 こうして、編集者・加藤親子と先生の関係が出来たのです。手塚先生は元「少年倶楽部」の名編集長から認められたので、大変に喜んだし、自信を持ったことだと思うでしょう。
 しかし、そうではなっかった。この後で先生は島田啓三や芳賀まさおといった「少年倶楽部」の有名大家のところへも作品を持って行き批評を乞います。すると「君の作品は邪道だ」とか「デッサンがまるで出来ていない」と否定されてしまうんです。さぞかしショックだったと思いますよ。
 でも、加藤謙一さんは違っていました。手塚マンガの真の新しさ面白さを見抜いた。旧世代編集者の象徴のような人物なのに、若くて柔軟な思考とセンスの持ち主でした。ですから、彼は連載マンガの他に投稿ページ「漫画教室」の担当も手塚先生にまかせたのです。


投稿頁の天才たち

 この投稿ページにハガキで4コママンガを盛んに送りつけてきた少年たちが又すごい!
松本零士高井研一郎石ノ森章太郎赤塚不二夫板井れんたろう水野英子・伊藤章雄といった後に有名マンガ家になった人や横尾忠則篠山紀信眉村卓黒田征太郎清水哲男といった画家・デザイナー・カメラマン・作家・詩人などになった人達が大勢いたのです。ぼくも高校1年生のころここに投稿しました。
 それ以前から投稿をしていたのが、後に『スポーツマン金太郎』を描いた寺田ヒロオさんです。それに続いて永田竹丸鈴木伸一藤子不二雄二人組たちもいました。彼らは「漫画少年」の新人執筆者となり、トキワ荘に集まり「新漫画党」というグループを結成します。(1954)
 ですから戦後、大きくマンガが花開いたのは、名編集者・加藤謙一がいたからだとも言えるくらい、「漫画少年」での彼の編集にはすごいものがありました。手塚先生のライフワーク『火の鳥』も、最初はこの雑誌から連載開始されたのです。しかし、良心的な編集方針のため、付録を何冊も付けた当時の児童月刊誌とはくらべものにならないくらい売れず、学童社は資金難でした。宝塚からやってくる手塚先生を旅館にカンズメにして仕事をしてもらうと、大変経費がかかって困る。
 そこで、たまたま加藤宏泰さんが住んでいたトキワ荘の一室に先生を下宿させる事にしたと思われます。そうすれば、映画を見に行ったりして行方不明になる先生の監視も楽だと考えたのでしょう。最初の漫画家入居者・手塚先生のすぐあと(昭和28年の大晦日)に入居したのが、やはり「漫画少年」の新人執筆者・寺田ヒロオさんでした。
 その当時の部屋代は敷金が3万円で4畳半が一ヶ月3千円です。台所・トイレは共同。現在のように風呂などは付いていません。勿論、電話もナシでです。そして電気代ガス代が共同で、頭割りの負担と言う制度だった。当時としては最も類型的・標準的アパートです。
 ちなみに、ぼくが高校卒業で塩野義製薬へ就職したときの初任給が8千円という頃の値段です。ラーメン・コーヒー・週刊誌が30円くらいだったと思います。藤子不二雄の書いた『トキワ荘青春日記』によれば、当時彼らの原稿料は1ページ700円だったそうです。
 寺田さんが入居した日は、ちょうど年末だったので手塚先生は実家へ帰っており、宏泰さんも新婚のお正月を迎えるためやはり実家へ帰っていて、マンガ関係の人は誰もいませんでした。
 手塚先生はもともとトキワ荘では、ほとんど寝たことが無いようです。いつも何社かの編集者が詰め掛けてきていて、仕事が一段落するとどこかへ出掛けてしまう。
 そして、やはり狭かったのか29年の後半に雑司が谷鬼子母神のそばの並木ハウスに引越していきます。ちょうどその直前、上京して両国の2帖下宿にいた藤子二人組が、仕事のことで講談社へ行った際に手塚先生に出会ったのです。勿論彼らは以前からよく先生のことを知っていました。それで、先生は「君達トキワ荘のぼくの部屋へこないか。敷金はそのままにしておくから」と声を掛けてくれたのです。狭い2帖部屋で脚も完全に伸ばして寝られなかった藤本さんは喜び、10月の30日オート三輪車に荷物を積んで移り住みました。
 我孫子さんは二人で上京する前に、東京の下見に来て寺田さんの部屋に泊めてもらっています。
 ちょうど10月で、二人は新年号用の付録など、いろいろ仕事を抱えていた。ですから引越し当初は蒲団を敷いて寝た記憶がないと言います。徹夜徹夜で10、11、12月が過ぎていったようです。正月、疲れ果てて実家へ帰ると、その反動がきて二人とも全然描けなくなってしまった。それで仕事に穴を開けてしまいます。


ぼくのファーストコンタクト この30年、ぼくは高校三年生、宮城県立佐沼高校に通学していた石ノ森も同じです。でも彼は既に「漫画少年」に『二級天使』という8ページ短篇の連載を開始していました。その彼から夏休みに上京するから、赤塚と3人で手塚先生のところへ『墨汁一滴』を持って会いにいかないかという手紙がきたのです。『墨汁一滴』はぼくらの肉筆同人誌のことです。東京の同人は最初はぼくと赤塚だけでした。
 実はこれ以前に、石ノ森の才能に注目した手塚先生が既に『鉄腕アトム』(電光人間の巻)の付録の絵の代筆を頼み、彼は宮城の実家でその作画をやっていたのです。ですから、先生は間違いなく会ってくれる事になっていたようです。すごいチャンスです。ぼくは嬉しくって、就職試験のための勉強はまったくやりませんでした。そんなこと、どうでもいいやって気分になってしまった。
 最初に出会ったときの石ノ森の印象は、典型的な田舎のニキビ面高校生でした。白線が二本入ったワザと汚した学帽をかぶって、手拭を腰のベルトにたばさんでいる。早速、池袋まで山の手線で行き、そこからトロリーバスという電気式自動車で千登世橋まで。そこで降りるとすぐ並木ハウスでした。
 手塚先生はステテコ姿で『リボンの騎士』の彩色をやっておられたんですが、3人が来たというので、仕事を中断してピアノは弾いてくれるは、3人一緒の似顔絵を描いてくれたり、単行本をくれたり、大サービス。たしかそこに編集者が二人居たと思います。その一人、「少女クラブ」の丸山さんが同人誌を見てくれた。ぼくらは大いに感激しましたが、実はとんでもなく彼らの仕事を遅らせる邪魔者だったんですね。締切りが迫っていた訳です。
 これは、後年になってわかったことですが。丸山さんはアタマにきていたので、この時の事は忘れてしまったと言います。
ぼくら三人は散々楽しんだ後で、次号の「墨汁一滴」のためにメッセージを書いて欲しいと原稿依頼までして、こんどはトキワ荘に向かいました。ここも初めてです。番地を頼りに商店街で場所を聞き、アパートの裏口階段から2階へ上がり、寺田ヒロオさんや藤子不二雄二人組にお会いしたのでした。


石ノ森・赤塚プロデビュー

 この翌年、石ノ森は上京し、最初は西落合の2帖半下宿に入ります。赤塚は工場をやめ、
やはり「漫画少年」の投稿家で、近所の平井のプラスチック成形工場に住み込んでいた横    田徳男と一緒に西荒川という都電終点駅の目の前の下宿に入りました。
 単行本マンガを描いて暮らそうというわけです。新人もいいとこなので、雑誌に描かせてもらえる状況ではありません。でも、既に単行本を描いて暮らしていたつげ義春さんが盛んに独立を勧めたようです。彼もその頃は平井に住んでいたんですね。赤塚の当選作品が「漫画少年」に毎号掲載されていたのを見て、よく彼を訪ねてきてたようです。その作品を見て、これなら単行本を描けると赤塚をけしかけたわけです。
 ぼくは、この西荒川の下宿で偶然つげさんにお会いしました。その頃の彼は、かなり手塚スタイルの絵で、ミステリー漫画を描いていました。岡田さんというベテラン漫画家の手伝いもよくやっていたようです。このへんのことは『義男の青春』という作品に描かれています。この時のつげさんの印象と言いますと、ぼくと年齢が殆ど変わらないはずなのに、無口な中年のおじさんという感じでした。
 髪の毛がばさばさで長く、だからといってそれが芸術家風というわけではなかったのです。何でこんなに老けてるのかなあと思いました。この直後、赤塚は曙出版というところから『嵐をこえて』という悲しい少女漫画を描いて出版、デビューします。(「漫画少年」に短篇が掲載された事があり、それがデビューという人もいます。確かにそうですが短篇は投稿作品です。)
 彼の描きたいギャグは貸本では人気が無いせいで、描かせてもらえませんでした。そして少女漫画は絶対に<悲しい>ストーリーでないといけなかった。赤塚はこれが苦手で、SF風な『湖上の閃光』というアクションのある少女漫画を次に描きますが、これも歓迎されませんでした。
 それで赤塚は石ノ森を西荒川の下宿へ連れてきて、彼の雑誌付録『まだらのひも』(「少女クラブ」)を手伝ったり、食事を作ってやったりします。ぼくは、まだ絵の方が下手糞でしたから、塩野義製薬という会社に就職しました。2〜3年修行しないことにはプロデビューは無理だと考えたからです。それでも、赤塚にくっついて曙出版に作品を持ち込んだりしていました。社長に、そのうちに使ってやるから時々作品を持ってこいと言われ、希望をつないでいたのです。
 ところが、会社の健康診断で肺結核の初期の疑いが有るというので、3ヶ月でクビになってしまったのです。当時、結核を治すパスカルシュウムが発売になったばかりなのに、それをヒト瓶くれただけでした。ぼくはこれ幸いとばかりに、漫画描きに専念しました。なにしろ、激しい運動を避けるだけでいいんですから。
 昭和31年(1956)5月、石ノ森と赤塚がトキワ荘に移り住みます。ぼくは32年になって、若木書房から『爆発五分前』という作品でデビューしました。


鈴木・森安・赤塚のビンボー生活 31年2月に鈴木伸一さんと森安なおやさんが二人で一室に入居しています。森安さんは田河水泡先生のお弟子さんでしたが、鈴木さん同様殆どマンガの仕事が無い。森安さんは牛乳配達のアルバイト。それで、藤子さんのところへ1本取ってくれとやってきたりした。拡販1本で40円貰えたらしい。押しつけ販売に藤子さんは困ったようです。
 鈴木・森安二人組も「漫画少年」の執筆者として知り合ったんですね。二人で部屋代を折半すれば何とかなると考えたんです。しかし森安さんは一切払わなかった。彼は金欠で常に空腹状態なのが有名なヒトだった。もちろん鈴木さんだって裕福ではありません。ワイシャツは洗濯するのもクリーニングに出すこともせず、デザイン会社へ通っていた。エリの折り返しのところが汚れると、そこを1cmほど移動させて折り曲げ着る。それを何度か繰り返して、真っ黒になると何枚かの洗濯をせずに放ってあったシャツを出して、その中から比較的きれいなものを着る。そんなことをやっていた。
 食事はガス代節約のため、全て外食。お金が無くなると、食パンだけ買ってきて、冬には石鹸のように固いバターを、裸電球で溶かしてそれを塗って食べていた。冷蔵庫なんてもちろん有りません。
 そう言えば、よこたとくおの部屋へ赤塚といくと、なにか変な匂いがする。赤塚が戸棚を開けてみたら、牛乳が腐って中身が盛り上がって蓋が開いてしまっているんです。一週間も放ってあったらしい。なんで捨てないの、といったら面倒だからなんて言ってました。
 赤塚は石ノ森がいる間はなんとか食いつなげるのですが、年末に石ノ森が正月だというので帰省してしまうと、とたんに金欠病が発病してしまう。新潟からオモチを送ってきたので、それだけ食べて石ノ森が帰ってくるのを待つ事にした。引出しに28円有ったので、醤油の小ビンを買ってきた。それで付け汁をとりあえず作っていると、藤本さんのお母さんが大根をくれた。で、お雑煮にした。
 ツユは多めに作り、一週間分にしてなんとかもたせよう…。そう思ってると、同人仲間だった横山孝雄がやって来たんです。(彼はオモチャ会社の箱絵のデザインをやりながら、漫画家を目指していた。)大晦日だけど、正月田舎へ帰らないから泊めてくれと言う。それで食事時にお雑煮を出すと「うまい、うまい」と汁を全部飲んでしまった。
 赤塚は、正月それしか無いとは言い出せなかったんです。

 ちなみに当時の物価を藤子さんの金銭出納帳から書き抜いてみますと―――
 大根・5円、キャベツ・20円、とうふ1丁・10円、タマゴ1個・15円、牛乳・14円、
 ラーメン・40円、コーヒー・50円、電話(時間無制限)10円、LP・2100円、ロード・ショー:150円、地下鉄(池袋〜東京)20円、「週刊朝日」・30円、です。


石ノ森のハイテク生活 

そんな貧しい連中の中で、エネルギッシュだったのが石ノ森です。彼は連載を持っていましたから、とりあえず食べられる。ステレオが欲しくなると、赤塚と合作で単行本を描いてその原稿料で、当時珍しかったオープンリールのテープレコダーや8ミリカメラを購入しました。レンズが3本付いているターレット式です。彼はそのカメラを使ってアニメを作りたいと言い出しました。
 石ノ森は手塚先生から頼まれて、東映動画に『西遊記』のストーリーボード描きの仕事で毎日通勤したこともあるんです。そのとき、動画用紙やセルを沢山もらってきて、それで実験的に犬を動かそうということになった。、
 そのため彼は空き部屋となった隣の部屋を借り、撮影台を据えます。これは、赤塚が設計し、町の大工さんに作ってもらった木製の3段マルチプレーン式です。昼間東映に行き、
夜この部屋で犬の原動画を描く。それをセルにトレースするのが赤塚で、ぼくは彩色をやった。彩色と言ったってフィルムはモノクロです。ポスターカラーの白と黒で塗り分ける。
 でも、いざやってみると大変なんです。1秒分描くのに何日もかかる。その上、石ノ森の雑誌原稿が遅れる。でも東映に行かなければならない。ペン描きを赤塚にまかせ、仕上げをぼくがやるなんてことにもなってしまった。結局20秒位で、音をあげてしまいました。
 その他、この部屋では35ミリ・ムービーの上映もやっています。ハリウッドの大作を4帖半の壁に張った模造紙に映して楽しんだりしたんですね。どうしてそんなことが出来たかといいますと…或る映画配給会社の人が、違法にフィルムを闇で売りに来たんです。
 当時は期限切れのフィルムは刻んだ上で海中に投棄していたらしいのですが、それを捨てずに密かに売りに出していた。その人は手塚先生に教えられて石ノ森のところへ来たんですね。フィルムだけでは役に立ちません。すると、この人は凄く古いけれど、コンパクトな35ミリのプロジェクターも安く売ってくれたんです。
 フィルムは1巻1万円。石ノ森はまずディズニーがたしかアカデミー賞をとった短篇アニメ『風車小屋』を買い、次にミュージカルの『リリー』や大作『クオヴァデス』を購入しました。これは確か16巻もあったと思います。ところが、中古映写機が凄い音を立てるんですね。そのため夜間にはとても上映出来ません。真夏、カーテンを閉め切ってガーガー。扇風機もクーラーも無い。暑いのなんの。そして1巻毎に巻戻さないと次が見られない。これが時間が掛かり面倒なんです。
 映写技師役の赤塚がたちまち音を上げてしまいました。彼はこういうことだけではなく
食事つくりやこまごました雑用を何でもやって石ノ森を助けてやっています。というのも
当時の月刊雑誌ギャグ漫画のページは、非常に少なく大抵ベテラン作家が長期連載していて、捨てカットぐらいしか仕事が無い。あとは増刊号ぐらい。
 単行本書下ろしの方もギャグはダメで、ストーリー物を描かされる。だからイヤイヤの仕事になってしまって進まないんです。仕方なく石ノ森とぼくがアシストしてやったこともあります。『嵐の波止場』がそれで、どうして嵐なのかと言うと、雨が土砂降りなら斜線だけで、あとは細かい背景を描く必要が無く、早く仕上がるから。石ノ森の考えたタイトルです。この原稿料で、赤塚は溜まっていた家賃を払いました。
 8ミリカメラは藤子さんたちも凝っていて、西部劇を自作自演で撮ったり、やたらに威張る編集者を石ノ森に演じさせて、原稿の締め切りに遅れて謝る藤子二人組なんて短篇を作ったりしていました。我孫子さんの部屋で見せてもらったこともあります。


U・マイア登場 

合作と言えば、ほんの一時期ですが水野英子さんが住んで、彼女と石ノ森と赤塚の三人の合作作品が「少女クラブ」の付録になったことがありました。その作品は『星はかなしく』(歌劇『アイーダ』より)、『赤い火と黒髪』(歌劇『サムソンとデリラ』より)、『くらやみの天使』(連載ミステリー)などです。
 ペンネームはU・マイア、つまりウマイヤというダジャレ・ネームでした。当時としては、相当な実験作品ですね。なにしろ歌劇を漫画化したなんて初めての事だと思います。
この頃、新潟から赤塚のお母さんが出てきて、皆の食事を作ってくれていました。ぼくも何度かご馳走になりましたが、それ以前の赤塚に仕事が余り無い頃は、殆ど石ノ森が食費を出していた筈です。工場の独身寮で自炊したことのある赤塚は、簡単な料理なら何でも作れました。でも、突然入った付録の代作で徹夜した朝なんかは、コッペパンひとつに牛乳1本とリンゴ1個が定番でしたね。
 赤塚の告白によると、彼はお母さんからお前は水野英子と結婚しなさいと言われたそうです。仕事がお前より出来るし、そうすれば食うに困らない、そう言った。でも水野さんは石ノ森を尊敬している様子がありありと見えた、とても相手になんかしてくれないと思ったと言います。
 たった一度、夜水野サンと二人だけで散歩したとき「星がきれいだね」ってちょっとロマンチックな言葉をささやいたら「バカヤロー」って笑われたよ…と、聞いたことがあります。


悲しい出来事 

自宅が東京だったぼくは、こうしたアパート生活の経済的条件というものが理解出来ていませんでした。彼らは毎日好き勝手に楽しんでいるものだとばかり思っていたのです。
 しかし全てが楽しい毎日ではなかった。つらく、悲しい事もいろいろ有ったと思います。
その中でも印象的な出来事というと、弟のことを心配して宮城県からやってきた石ノ森の
お姉さんの突然の死です。彼女は文学少女クラシック音楽にも造詣が深い女性で、石ノ森に強い影響を与えていました。けれど幼い時からゼンソクでかなり心臓が弱い人だったのです。それが、トキワ荘という狭くきびしい環境により無理がたたり、或る日、激しい発作を起こして突然病死してしまったのです。
 ぼくは赤塚から電報をもらい、病院に駆けつけました。赤塚と石ノ森とぼくは殺風景な死体安置所でその夜を過ごしました。お姉さんが家族に守られて暮していた時とは違うことが、タフな石ノ森には分からなかったと言えるかもしれません。
 彼はその後、「COM」に発表した『ジュン』を彼女に捧げています。石ノ森がひどく落ち込んだ事はこれ以前に一度ありました。赤塚の部屋に来たと思うと、うなだれたまま何を聞いても返事をしないんです。赤塚の話だと、どうも高校時代に好きだった女性にラブレターを書いたが振られてしまったらしい。
 結構彼はホレっぽいところがあって、新宿のあるバーのホステスを好きになった事もあります。でも、まだ凄く純情で彼女に告白できないんです。告白して振られてしまった事がトラウマになっていたかのかも。彼は腕時計をプレゼントする時、自分は行かずに、赤塚に渡すように頼んでいました。
 すごく消極的性格にみえるけれど、そんなことはない。彼はこの4畳半の部屋から、世界旅行に旅立っていった事もあります。まだドルが自由化されていなかったので、一般の人で長期の海外旅行に出るひとはいない時代です。それを、彼は集英社から取材記者の資格をもらい、借金して3ケ月の旅行に出ているんです。アメリカへはSF大会に唯一の日本人として参加して、ハインラインらに会っています。
 ヨーロッパ各国や香港などあちこち巡り歩いている間、ほとんど手紙も寄越さないので、無事でいるのかどうか随分心配しました。国際電話なんて、すごく料金が高くてとても気軽に利用できなかった。トキワ荘にも電話は入っていませんでした。目の前が落合電話局でしたが、誰もそんな経済的余裕が無いと決めつけていたわけです。




トキワ荘を出ていったのは鈴木伸一さんが早かった。昭和31年中頃、横山隆一のおとぎプロに入社したために鎌倉へ移った。次に寺田ヒロオさんが32年6月に結婚して目白の方へ引っ越されました。森安なおやさんもこの年に出て行きました。水野英子さんは33年に4ケ月いただけです。36年の夏、藤子二人組みが川崎市へ引越し、秋には赤塚も結婚して近所のアパートへ移りました。横田も一緒のアパートに引っ越しています。
 最後になったのは石ノ森で、37年に落合に移ります。彼もこの時、結婚しました。
 トキワ荘そのものは1982年に、改築のため解体される事になり、もと石ノ森の部屋に関係者が集まり「同窓会」が開かれています。その時にはNHK-TVが取材しました。



(未完)徳島県北島町創世ホール」講演用テキスト