長谷邦夫はてなダイアリー・アーカイブ

長谷邦夫はてなダイアリーのバックアップです。今のところ更新は無い予定です。

薄手セーター

◎ネット買いしたLLサイズのセーターが到着。
 大き過ぎるかな?と、危惧していたが、それはなかった。
 「安物」。そろそろ、暖かい日も〜と思い薄手にしたのだが、
 今日は寒いゾ。
★やっと「何もしなくていいヤスミ」の日だ。
 先日、短大のHPに登録した「シラバス」のメモを、手帳に
 写しておくか…秋からのヤツなんで、急ぐことはないが。
★★〜と、思ったら、出席カード(短大)の整理が、まだ完全じゃ
 なかったよ。面倒な<作業>。ちびちび…。

◎読めていない本が、あちこちに…。読書。

松岡正剛の千冊を読むから、ちょっと貼り付け■
(7)弱く読む

 これであらかたの案内をしたつもりだが、実はぼくにとって『パンセ』が澄んでいる理由は、もうひとつある。それはパスカルがつねに「弱さ」ということを、すなわちフラジリティに言及しつづけていることである。
 まず有名な「人間は考える葦である」をめぐった箇所を見てもらえば、パスカルの言いたかったフラジリティの意味がよく見えてくる。原文は次のようになっている。


〔347〕 人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である
これを押し潰すのに宇宙全体が武装する必要はない。 一つの蒸気、一つの水滴もこれを殺すのに十分である。
しかし宇宙がこれを押し潰すとしても、そのとき人間は、人間を殺すこのものよりも、崇高であろう。
なぜなら人間は、自分の死ぬことを、それから宇宙が自分よりずっと勝っていることを知っているからである。宇宙は何も知らない。

 ここに決然と宣言されているのは、人間がもともと本来的にもっている「弱さ」であり、その「弱さ」のもつ小さな偉大さというものなのである。
 パスカルはとっくに「弱さ」や「小ささ」が大きな自然や巨大な宇宙に匹敵することを知っていた。それは人間の思考を媒介するかぎり、強弱と代償が逆転するものなのである。〔198〕にはこういうふうにある。「人間の小さなことがらに対する敏感さと、大きなことがらに対する無感覚とは、奇妙な入れ替りを示している」。
 うーん、すばらしい。まずは「小さなことがらに対する敏感」だ。うん、うん。シャープペンシルの芯やプチトマトや惚れた女の唇の端である。次に「大きなことがらに対する無感覚」だ。住んでいる町の全体、イラク戦争、仏教の全貌。たしかにこういうものには鈍感だ。しかし、それがときどき入れ替わる。
 こういうパスカルに、これまではほとんど注目されてはこなかった。これまでパスカルは「認識の残酷性」があるとさえ言われ、ときには「一貫した思考をしない思想者」というふうに、敬意はもたれていたものの、その本質が掴めないままに評価されてきた。
 けれども、もうそういう読み方はやめなさい。「入れ替わる」ということそのものがパスカルの思想の構造なのである。位相幾何学なのである。